北海道のことなど 

あっという間に進んだ無煙化により、身近から蒸気機関車が一気に消えていきました。
全国各地で消えてゆく彼らの情報に接するたびに、何とも言えない焦燥感に身もだえしていました。
そんな中でSL最後の聖地北海道への想いが一気にふくれあがり、
バイトでためた僅かな金での北海道行きを決心したのは、1974年高校の冬休みでした。

考えつく限りの防寒装備に身を固め、
(当時九州の人間にとって冬の北海道は熊の住む雪と氷の異国でした)
北海道ワイド周遊券を握りしめ1975年1月3日9:54分の小倉行き列車へと乗り込みました。
小倉から『急行つくし1号』で大阪へ、東海道本線で京都へ出て『急行きたぐに』で青森、
青函連絡船に乗り換えて函館、さらに『急行大雪』へ乗り継ぎ札幌へ向かうと言う
延々実に48時間にも及ぶ長旅の末、渡道を果たしたのでした。

完全な寝不足状態で早朝6時過ぎに札幌へ着いた私は、そのまま宗谷本線撮影のため名寄へと向かいました。
名寄では駅から南の小高い丘へと歩き撮影地点を探していたところ、小さな子犬がついて来てしまい
迷子になっては困ると思い、子犬がついて来れないように通路を外れて雪の中へと入っていきました。
10メートル程も外れたでしょうか、いきなり胸のあたりまでずっぽりと雪の中へはまってしまいました。
動こうにも重いリュックを背負い、左手は三脚を持ったまま雪の中。
どうにも身動きできなくなってしまいました。

あたりを見渡すと、どうやらグラウンドのような所でした。(後に名寄市営球場と判明しました)
スタンド付近からグランドへ入り込んでしまい、スタンドとグランドの高低差で雪にハマったようでした。
あたりには人影もなく、助けを求めるすべも有りません。
このままじゃ死ぬかもと、必死で自分の前の雪をかき分けて、ようやく脱出したときは既に日暮れ時でした。
やっと脱出してホッとしてしゃがみ込んだ時に大きな汽笛が響き振り返りました。
私の眼下に、沈む夕日に真っ赤に染まった雪の大地を白煙をたなびかせて走る9600の姿が有りました。
写真には撮れませんでしたが、その光景は今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。

こうして最初からつまづいてしまった北海道撮影旅行は、以後全く計画とは異なる行動を強いられ、
結局計画の3分の1の撮影しか出来ずに終わりました。
大して雪も積もっていない札幌の歩道で数歩毎にこけまくった事。
北見で経験した−25度の酷寒。
行く先々で親切にしてくれた方々。
数々の貴重な体験と共に良き思い出となっています。

この時の失敗を取り戻そうと、その年の夏休みに再びバイトで資金を作り、北海道へ向かいました。
前回の失敗に懲り、行程に余裕を持たせて体力消耗を防ぎつつ最大限の効率で撮影するという
分刻みの綿密な計画を立てて十分な準備をして出掛けました。
しかし、運悪く一旦日本海へ抜けた台風が、再び東北から北海道へ縦断してました。
そんな事とはつゆ知らず、京都駅へ着くと梅小路を見学しに行き、食事を済ませて戻って来ました。

すると京都駅は只ならぬ様子で人が溢れ、駅のアナウンスも引っ切り無しに叫んでいました。
何が起こったのかと情報を集めると、既に東北方面の日本海側路線は全線不通。
慌てて時刻表をめくり東京から東北本線経由での行程を作り、改めて切符の手配をしようとしたところ、
今度は青函連絡船の運休が伝えられました。
それでも諦めきれず、青森まで行き青森で泊まって青函連絡船の再開を待ち、
渡道を果たそうとしましたが、事態は刻々と悪化していき、とうとう函館本線が土砂崩れで
不通になったとのアナウンス。復旧の見込みは立たないとの駅員の言葉。
万事休すです。私の再挑戦は京都駅で悔し涙と共に頓挫してしまいました。

失意のまま帰宅しましたが、幸いにも全ての切符の払い戻しを受ける事が出来たので
夏休み中の再挑戦の計画を急遽立てていましたが、日程と諸処の事情が許さず断念しました。
受験勉強一色の年の最中に居る身にとっては、この夏が最後のチャンスでした。
今でも、悔いを残したままの地、それが私にとっての北海道です。

                      (2001.01起稿 2021.10 改訂)


          
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