宮原線のことなど

宮原線は久大本線豊後森から熊本県の肥後小国を結んでいたローカル線です。
実際の路線としては、恵良駅で久大本線から分離して肥後小国まででした。
宮原線は色々な路線計画が持ち上がった路線でもありました。

そもそも最初の計画では熊本県菊池市を経由して福岡県瀬高から佐賀市へ至るもので
大分市、熊本市、佐賀市を短絡的に結ぼうという壮大なものでした。
結果的には佐賀と瀬高間は佐賀線として開通し、瀬高と南関間は東肥鉄道として開通。
そして大分県側の路線として宮原線が開通しました。
しかしそれぞれを結びつける工事は現実には進まず、
当初の計画路線で部分開通したすべての路線はその後皆廃止されました。
(現在もその当時の工事途中で廃棄されたトンネルが痕を留めています)

他にも矢部線と結ぶ計画もありました。
山間地のみを縫うように走り小国と結ぶメリットは木材の運搬以外になく、到底実現し得ない計画でした。
また、当初計画に基づいた路線延伸計画もありました。
熊本県菊池市へと延伸して、菊池まで開通していた熊本電鉄と結ぶと言うものでした。
これも採算性と難工事の問題で机上の空論と化してしまいました。
色々な話は有ったものの結局宮原線は盲腸線となりました。

もともと人口希薄な所を走っており豊後森への通勤通学や買い物などの
沿線住民の生活利用は殆ど期待できず、頼みの綱は木材貨物と宝泉寺温泉の旅行客でした。
しかし山間地の小さな温泉場を訪れる人は少なく、さらにその客すらすでにバスに奪われ
結局は貨物に頼らざる得なくなります。
小国は杉の産地であり、その輸送の役目を果たす事となった宮原線は、
こうして貨物輸送を主体とした路線となりました。
かつてはC11が活躍し、数多く点在する美しいアーチ橋とともにオールドファンには知られたところでした。
私が撮影を始めた頃には既に貨物列車は全廃され、C11も既に姿を消していましたが、
単行の気動車がのんびり走る情景は、SLファンでさえ引きつけられるものがありました。

はじめてこの路線に関心を持ったのは、1975年3月高森線のC12が消えるときでした。
当時高校生だった私は高森線撮影のため、前日より玖珠町の友人宅に泊まり
宮原線の始発で小国へ、小国からはバスで立野へと言う行程で出かけました。
この時の乗客は終始私一人で、車窓から見える風景や途中の駅の姿に興味を引かれながらの乗車でした。
途中で車掌さんが運転席へ行き運転士と交わした会話が以下のようなものでした。
「きょうはどう?」
「きょうは重いよ、登らんもんね。」
たった一人の乗客である私は、私のせいで登りがきついのかなと恐縮してしまいました。
この日以来、頭の片隅に宮原線はいつも居続けることになります。

その後、蒸気機関車がなくなり、撮影対象を無くしてしまった私は
急に宮原線のことを思い出しました。
車の免許も取り、知人から軽自動車を買ったばかりでしたので
足は確保できていました。
早朝と夕方しか走らない路線ですので、撮影可能なのは朝の列車でした。
*宮原線時刻表(拡大します) 
昼間の上下一本は土曜日のみの運転


夏休みになると夜明け前に出発して愛車フロンテを飛ばして、宮原線を撮影しに通うことになりました。
宮原線沿線には有名な宝泉寺温泉や壁湯などの温泉が数カ所有り、
撮影後に湯につかり帰途につくと言う楽しみもありました。
壁湯では間違って共同浴場ではなく、旅館の所有する露天風呂に入った事も有りましたが、
旅館の方が出てこられて、叱られるかと思いきや、わざわざ脱衣かごを持って来てくれたりした事もありました。
こうした人と自然の素朴な良さも宮原線の魅力だったのかも知れません。
実際に沿線で出会った地元の人々には本当に親切にしていただきました。
色々と思い出の詰まった宮原線も昭和59年11月に廃止となってしまいました。

1997年に小国から森まで車で通る機会があり、久し振りに宮原線沿線を通りましたが、
いくつかの駅は跡形もなく消え去り、玖珠川をまたぐ鉄橋も撤去されていました。
ただ、この路線の特徴であった7つの竹筋コンクリート製のアーチ橋は健在で、
かつてここに存在した宮原線の名残を今に伝えていました。

さらに昨年(2020年)再び通ることが有りましたが、道路は新しく拡幅されたうえ
付け替えられており、かつての様子とは大きく異なって便利になっていました。
宮原線の遺構も保存されており、少しだけ安心しました。
                                                       (2021.10加筆)



          
inserted by FC2 system