写真のことなど 

蒸気機関車の写真を撮り始めた頃、写真そのものについての知識は皆無でした。
カメラの事に関しても知識はなく、一応取り扱い方だけをおそわり撮影していました。
シャッター速度も単純に止まっているときは1/100、動いているときは1/200と言う具合。
絞りもまた単純にフィルムの箱に書かれていた天候と絞り値の表の通りでした。
いつも現像に出していた写真屋さんからは、露出が足りないと毎回言われていましたが、
露出が足りないと言う意味が分かりませんでした。
そんな状態で撮影を続けていましたので、ろくな写真は撮れていません。

高校へ入ると、同じように機関車の写真を撮っている人間が数人居て仲良くなりました。
彼らの話はとても勉強になり、写真の撮り方などについても教えてもらいました。
彼らは写真を自分で現像したり焼き付けしていましたので、この時期に現像やプリントの技術を習得しました。
とは言え、最初は失敗の連続で現像ミスでダメにしたフィルムは数知れずあり、今思えば後悔してます。

しばらくは高校の写真部の部室と機材を借りて現像などしていましたが、
何とか自分で出来るようになると暗室が欲しくなりました。
バイトと小遣いをためてFG-66と言う引き延ばし機と現像タンクなどを買いました。
当時の現像タンクは、透明のフィルム状のガイドにフィルムを重ねて巻き込むもので、
現像ムラも多く大変でした。
そこで考えついたのが、小型のタッパーの中に現像液を満たし、
そのなかへカートリッジから取り出したフィルムを入れてシェークするというものでした。
名付けてタッパーシェイク現像法(^^;
これだとムラも起こらず、面倒な巻き込みも不要とあって、友人達にも流行しました。

このころはフィルムはネオパンSSを使っていましたが、増感現像なる方法を会得してからは
ネオパンSSSやトライXも使うようになりました。
さすがにこの頃になると、カメラのことや写真のことについても多少知識も増えて、
少しはまともなものが撮れるようになっていました。
しかし、何とか写真がまともに撮れるようになったのと反比例するように蒸気機関車は姿を消していきました。
この頃は本当に、あと数年早く生まれていれば と思ったものでした。

大学入るとバイトに精を出して稼いだお陰で次第に機材が充実してきます。
引き延ばし機もラッキー90Mへと代わり、友人達と初めての写真展も開催しました。
写真展は馴染みの地方大手カメラ店のギャラリーをタダで借りて1週間行いましたが、
新聞の地方欄でも取り上げられ、結構盛況でした。

機材は充実しても、肝心の蒸気機関車がなくては話になりません。
撮るものがなかったので、DCや自然の風景などを撮ってお茶を濁しつつ、
せっかく撮ったのだからと日本カメラ誌の月例コンテストに出したりして、
たまに入賞してフィルムを賞品としてもらったりしていました。

そうこうするうちにビッグニュースが飛び込んできます。
山口線での蒸気機関車復活です。
まさに天が与えてくれたチャンスとばかりに喜びました。
その後山口号を撮影しますが、SL撮影休止期間中に学んだ写真についての知識など、
C57を目にした途端に吹き飛んでしまい、結局相変わらずの写真を撮り続けています。
蒸気機関車を前にすると、構図がどうとか、写真としての完成度を高めるなどと言うことは
すっかり頭から消え去り、ただ蒸気機関車の写真が撮れることが嬉しくて嬉しくて仕方のない
鉄ちゃんへと戻ってしまうのでした。

こんな訳で、私の写真は写真的に見ればどうしようもないものばかりになっています。
私の首にぶら下がったニコンを見るたびに友人は言います。
『豚に真珠を絵に描いたような奴だな』 と。。。。
                                                   (2001.08)


          
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