昭和47.8年頃のことなど

私が撮影を始めた頃は、蒸気機関車終焉間近ではありましたが、まだまだ各地で元気な姿が見れました。
その頃の記憶に残っていることなどをお話しします。

当時駆け出しの鉄ちゃんだった私は、本屋で「鉄道ファン」なる雑誌を目にして大いに驚いたものでした。
この世の中に鉄道を趣味にする人間など、自分以外ほとんどいないと信じていましたので、
その驚きはそれまでの人生の最大級のものでした。
さらに私を驚愕させたのは、「蒸気機関車」という雑誌の存在でした。
紙面を飾る美しい各地の蒸気機関車の写真は私を魅了しました。
しばらくはこの2つの雑誌が唯一の情報源でした。

しばらくすると、私が腰を抜かす程驚く雑誌を見つけることになります。
「鉄道ダイヤ情報」です。
それまで列車ダイヤなどは機関区や駅で写させてもらうものでしたので、
このようなものが存在していた事は私にとって奇跡でした。
さらにその雑誌には各地の機関車や運行の状況が書かれており、
どこそこが次のダイヤ改正で廃止になる等という記事を読むと、
もう居ても立っても居られないほどの気持ちになりました。
しかし当時中学生の私に撮影旅行など許されるはずもなく、ただ悶々とする日々を送ることになりました。

高校生になると、早速アルバイトに精を出しては旅費とフィルム代をつくり 筑豊通いが始まります。
まだまだこの頃は機関区も厳しい規制もなく、自由に出入りできました。
昼間は路線の撮影、陽が落ちたら帰りの列車の時間まで機関区で過ごす日々でした。
もちろん線路を渡るときは 指差呼称 安全確認は怠りません。
すれ違う鉄道員さん達には、きっちりあいさつ。
当然業務の邪魔になるようなことなど以ての外で、撮らせていただくと言う謙虚な気持ちでした。
また、そうした姿勢が当時の鉄ちゃんのごく普通の姿でした。

そんな謙虚な姿勢と当時まだ鉄ちゃんは珍しい存在だったこともあり
機関区や駅員の人たちには撮影に行くと色々と声を掛けて貰ったりお世話になりました。
汚れているからと9600のドレンコックからのお湯で顔を洗わせてもらったり、
信号所の中へ入れて貰い高い位置から撮影させて貰ったり、詰所で湯茶をごちそうになったりと
こう言う事が日常茶飯事でした。

給炭給水のために移動するSLのキャブに添乗させてもらった事も有りました。
立ち位置が悪くて給炭機からの石炭がいくつも頭に当たったりしましたが、
転車台での転車を終えて入れ替えへの出発位置に付くまでの添乗経験はとてもエキサイティングでした。
ちなみに私は構内移動のSLのキャブに2回添乗させて貰ったことがあり
今となっては貴重な体験となっています。

このすぐ後に始まる全国的なSLブームとそれに伴う事故多発、そして立ち入り規制。
いつしか鉄道員達から邪魔者扱いされはじめる鉄ちゃん。
夢のような日々は一瞬で消え去りました。
暗黒の時代を呼び込んだのは、一部の人たちとマスコミのせいだけではない気がします。
危険を省みなくなり、横柄でわがままになった鉄ちゃん自身に原因があったのだとこのごろ思う次第です。
撮らせていただくという謙虚な気持ち。無くしたくないですね。
全国で復活した蒸機たちが活躍していますが、我々はマナーを守って
彼らの火が再び消えることの無いように、心がけていきたいものです。(自戒を込めて)
                                                    (2001.08)


          

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