日田彦山線 ひたひこさんせん
運転区間:門司港−日田 線路区間:城野−夜明 68.7km
沿革(略史)
明治29(1896)年 02月05日 豊州鉄道により伊田−後藤寺間で開業
明治32(1899)年 07月 豊前川崎まで開通
明治34(1901)年 九州鉄道が豊州鉄道を合併吸収
明治36(1903)年 12月  後藤寺−添田間開通
明治40(1907)年 07月01日 国有化され田川線となる
明治42(1909)年 田川線の一部に組み込まれ田川線となる
大正04(1915)年 04月01日 小倉鉄道により東小倉−上添田が開通 田川線と結ぶ
昭和12(1937)年 08月22日 夜明−宝珠山間開通 彦山線となる
昭和12(1937)年 09月20日 小倉鉄道の東小倉 - 添田の路線が国有化され添田線となる
昭和17(1942)年 08月25日 添田線 添田−彦山間延伸開通
昭和21(1946)年 09月20日 彦山線 全長4,380mの釈迦岳トンネルの開通により宝珠山−大行司間開通 
昭和31(1956)年 03月15日 彦山−大行司間開通により全線開通 城野−夜明間が日田線となる
昭和32(1957)年 10月01日 日田線 香春−田川線の短絡線が開業、日田線に組み込まれる
昭和35(1960)年 04月01日 城野−後藤寺−夜明間が日田彦山線となり、香春−添田間が添田線となる
昭和48(1973)年 09月30日 無煙化

ひとくちメモ
日田彦山線は北は門司港から大都市北九州市を貫き、筑豊の旧炭鉱地帯田川市を経由し霊峰英彦山をくぐりぬけて
大分県西部の日田市までを結ぶ南北に長いローカル線です。
北部、中部、南部とまったく異なる性格を持つ点も特徴であり、それぞれの地区に応じた沿線風景を持っています。
また歴史は幾多の路線名の変遷と吸収合併を繰り返した為にとても複雑な歴史を持ちます。
上記の略史は本当に略史ですので、実際にはもっと複雑に色々な国、私鉄が絡んでいますので
詳しくお知りになりたい方はネットや書籍等でお調べください。


北部は北九州市のベッドタウンとして開発が進む地区を通るため、通勤通学の足としての需要が増しています。
中部の旧産炭地地区は、かつての同線の中心地区であり、各方面へたくさんの路線が接続していました。
また、この地区は有数の石灰岩の産地でもあり、大規模なセメント工場が多くありました。
石炭産業衰退後は黒ダイヤに代わる白ダイヤと呼ばれその輸送に重要な役目を担ったのでした。
南部は宝珠山に炭鉱があったものの、他には日田地域の木材の輸送程しかなく
貨物輸送よりは筑豊地域と久大本線を結ぶ連絡線としての役割が主でした。

この路線は、こうした経緯から貨物輸送を主体として建設され、事実筑豊地域での重要な役割を果たしてきましたが
全線が開通した昭和31年は既に石炭輸送も少なくなっており、貨物から旅客輸送へ転換を図ることになりました。
その所為かは知りませんが、福岡県南部及び大分県と北九州、さらには本州とを結ぶ連絡絡線としての
役割も与えられました。
地方ローカル線としては異例の、実に5本もの急行が走ってました。
中には遠く島根県の浜田駅まで結ぶ急行列車も走っていました。
この線を走る急行は路線の歴史同様に複雑な行程の列車が殆どでした。

急行「はんだ」門司港−(鹿児島本線)−黒崎−(筑豊本線)−直方−(伊田線)−後藤寺−(日田彦山線)−
   日田−(久大本線)−由布院

急行「日田」直方−(筑豊本線)−黒崎−(鹿児島本線)−小倉−(日田彦山線)−日田−(久大本線)−由布院

急行「ひこさん」由布院−(久大本線)−日田−(日田彦山線)−小倉−(鹿児島本線)−博多

急行「あさぎり」門司港−(鹿児島本線)−小倉−(日田彦山線)−日田−(久大本線)−由布院

急行「あきよし」天ケ瀬−(久大本線)−日田−(日田彦山線)−小倉−(鹿児島本線)−門司−(山陽本線)−
   厚狭−(美祢線)−長門市−(山陰本線)−浜田

現在は沿線産業の衰退とともに貨物輸送も廃止され、やがて急行列車も廃止されてしまい
北九州地区の生活路線としての需要増加の他は特に明るい話題もなく、
地方ローカル線として細々と生き延びていました。
2017年(平成29年)7月5日発生した九州北部豪雨により添田-夜明間が不通となり、
その後2020年7月16日に同区間の鉄道廃止とBRT化が決定してしまいました。
路線名になっている日田にも彦山にも鉄道は通じなくなってしまいました。
雑話
北部地区のD51が活躍したことで知られていますが、南部地区の方が絵になる場所が多かった路線です。
たいていの場合、絵になる場所というのは難所を控えており、結果的に無煙化が早い場所でもあります。
よって、南部で活躍していた機関車については、C11位が記憶の隅に有るだけです。
南部無煙化の後、幸いなことに何度か南部地区を試験列車を牽いて走る9600とC11を
撮影する機会に恵まれました。
とは言え、臨時試験列車だったので事前情報はなく、まったく偶然に撮影できたものでした。
結局、絵になる地点まで行くことも出来ずに、手近な場所での撮影となったことが悔やまれます。

北部は門司区のD51が石灰列車を牽いて、それこそひっきりなしに走っていました。
路盤もPC枕木で大変立派な幹線規格の路線でした。
ただ、北部で唯一と言っていい絵になる場所であった香春周辺へは本数も少なく、なかなか足が向きませんでした。
呼野にはスイッチバックもあり、今思えばいっておけば良かったと後悔しています。
重連もダイヤ上は設定されていましたが、撮影に行く日が日曜日だったことで
全て単機運転で結局重連はお目に掛かれませんでした。
何しろあれほどの多数のD51と貨物列車が一度にDLに置き換わるなどとまったく予想もしなかった事でした。
かつては少しずつ無煙化が進んでいたのですが、この頃は一気に無煙化されると言うことが全国で起こっており、
情報力のなさが災いしたと言えます。

私にとって思い出深いこの路線も、災害での不通区間の廃止が決まってしまいとても残念です。
特に廃止される区間は最も風光明媚な区間であり、度々JRも観光目的の臨時列車を走らせるなどして
観光路線としての復活を目指していただけに残念です。
もう2度と釈迦岳トンネルを通ったり、岩屋のアーチ橋を渡る事が出来なくなってしまいました。
神社を思わせる駅舎と支える赤い柱、ホームの燈籠が印象的だった彦山駅も解体されました。
私の大切な思い出の場所が消えてしまう事は、私の身体の一部分を無くすような思いです。

多少の救いは其の後、再度令和2年7月豪雨で被災した久大本線の豊後中村−野矢間にある第2野上川橋梁の復旧工事に
日田彦山線の宝珠山−大鶴間の大肥川に架かっていた鉄橋の橋桁3基が再利用された事です。
橋桁は1937年製と古いのですが、状態も良く現状復旧には十分に使えると判断されたそうです。
                                                           (2021.10)


         



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