筑豊本線 ちくほうほんせん 運転区間:若松−原田 営業キロ数68.1Km 沿革(略史) |
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ひとくちメモ 国内有数の筑豊炭田を背景に、石炭の輸送のために数多くの路線が開設された。 その中で石炭積出港である若松と筑豊産炭地を結ぶ大動脈として筑豊本線は中心的役割を果たしてきた。 北端に若松機関区、中間に直方機関区、南端には鳥栖機関区と3つもの大機関区を抱え大いに賑わった。 しかし炭鉱閉山による地域経済の沈下により、かつてのにぎわいを無くしたが新たな産業としてセメント産業が栄え 黒ダイヤと呼ばれた石炭に代わり白ダイヤと呼ばれた石灰石の輸送に活路を見いだした。 しかしこうした輸送もトラックに代わられて行き、さらにはセメント産業自体の衰退と共に 鉱山や工場が相次いで閉鎖され筑豊本線は産業の大動脈としての役割を事実上終えた。 現在は、福岡市、北九州市の中間に位置する地理的利点や、自動車関連産業の集積も有り 新たな発展を始めており、筑豊地区から2大都市への通勤通学の重要手段として筑豊本線は再評価されている。 特に鹿児島本線と篠栗線とのアクセス路線になる折尾、桂川間は2001年電化され 同区間は福北ゆたか線と命名され北九州−筑豊−福岡を結ぶ第2ルートとして輸送量が増大した。 本線上の一部区間が電化され事実上短絡ルートとして利用される事になり路線両端が非電化で残ることになった。 雑話 北部九州の代表的なSL路線であったにもかかわらず、本格的に撮影を行ったことがない路線です。 しかし、久大本線の無煙化により撮影旅行を余儀なくされて初めて出かけたのが筑豊本線でした。 その意味では、私にとって忘れることの出来ない路線です。 本格的な撮影が行われなかった理由はただ一つ。そのアクセスの悪さでした。 当時中学生の私にとっての足は列車しかなく、筑豊本線は何度かの乗り換えを必要とし、 且つ連絡も悪いという行きにくい場所でした。 唯一まともに撮影に行った筑前山家付近も虫垂炎の手術で入院し、退院した次の日という強行軍でしたので、 冷水峠まで行く体力もなく早々に引き上げてしまいました。 無煙化も予想以上に早く進み、気がついたら9600しか居ない状況でした。 まだ、C55. C57. D50. D60 などが元気で活躍していた頃でしたので 何とも惜しいことをしたものです。 (2001.1起稿 2021.10改訂) |