後藤寺線 ごとうじせん
路線区間:後藤寺(田川後藤寺)−新飯塚  営業キロ数13.3Km
沿革(略史)
明治30年(1897)10月20日 豊州鉄道により後藤寺−起行間に開設
明治35年(1902)06月15日 九州鉄道により芳雄(新飯塚)−山野間開業
明治40年(1907)07月01日 国有化により、後藤寺−起行間が田川線に 芳雄−山野間が筑豊本線貨物線になる
大正02年(1913)08月20日 上三緒−漆生間開業
大正11年(1922)02月05日 産業セメント鉄道により起行−船尾間開業
大正15年(1926)07月15日 産業セメント鉄道により船尾−赤坂(下鴨生)開業 後藤寺線全線が開通
昭和18年 (1943) 07月01日 産業セメント鉄道国有化により現在の後藤寺線全線が国有化
昭和49年(1974)12月18日 無煙化
ひとくちメモ
筑豊の他の路線と同様に石炭輸送のために炭鉱鉄道として発足した後藤寺線。
炭鉱閉山後も船尾のセメント輸送の貨物輸送に活路を見いだしていた。
筑豊の拠点都市である田川市と飯塚市を結び、且つ福岡近郊区間でもある後藤寺線は地域の足として
今も旅客輸送に活躍している。

雑話
後藤寺線は量的な点で言えば最も撮影した路線です。
最も近場の撮影出来る場所であり、且つ色々なバリュエーションの組み合わせの9600が撮れました。
撮影地としては中元寺川鉄橋ぐらいしかありませんでしたが、最も親しみを憶える線です。
後藤寺には機関区があり、晩年は周辺路線を一手に引き受ける9600の巣でした。
後藤寺線の近辺には、たくさんの路線が走っており、そのどこにもSLが走っていましたが、
本数の少なさなどから目が向かず、気がついたら居なくなっていました。

当時駅から撮影場所まで行く手段は徒歩のみでしたので、どこへいっても線路の上を歩きました。
平行して道路も走ってはいるのですが、徒歩ですので最短距離を行くとなれば線路上となります。
比較的見通しの良い後藤寺線は歩きやすい線でした。
ただ、鉄橋だけは渡らないようにしていたのですが、一度だけ渡ったことがありました。
もともと高所恐怖症ですので鉄橋なんてとんでもないのですが、そのときは友人と一緒でしたので
彼の言葉に従い、鉄橋を渡ることになりました。

ちなみに当時はキャットウオークなど設置されていませんでしたので、枕木上を歩くしかありません。
足を踏み外したらおしまいだ と、ビクビクそろそろ渡り、真ん中まで来たときです。
突然DCの警笛が聞こえ、顔を上げました。
すると起行側の真っ正面からDCが姿を表わしました。
さすがにビヒりました。
信号か何かで起行駅で止まったのですが、そのときは走ってくるとしか思えず船尾側へ向かって
足元も見ずに全力疾走し、鉄橋が終わったところで土手に転がりよけました。
起きあがるとDCは起行駅の端から顔を出しているだけで止まっていました。
中元寺川と並行して走る道路上に沢山いた鉄ちゃん達の大爆笑を誘ったのは言うまでもありません。
これに懲りて鉄橋を歩くのはやめました。
(2001.1


          


inserted by FC2 system